こらみぃ

ニュースやコラム、白書などを読み解いて感じたことなどを書いていこうと思っています。 また、人生攻略もテーマに掲げています。

コラム

2015年10月29日、私達にとっても耳に馴染んだ政策に関するニュースが飛び込んできた。それは中国30年以上にわたって行ってきた「一人っ子政策」を廃止し、あらゆる夫婦が子ども2人持てるようにすると発表したというものだ。日本ではもちろん、世界中の各メディアでも大きく伝えられたこのニュースについて、今回は読み解いていこうと思う。

すでに多くの記事が上がっているが、その中でも要点がまとめられて非常に分かりやすい記事がこれだ。ポイントを5つにまとめて簡潔に説明されている。ここを読む限り、長年続けてきた一人っ子政策を廃止するに至った背景には、やはり少子高齢化と労働人口の低下があげられる。一人っ子政策の弊害が、いよいよ現実味を帯びてきたということだろうか。

一人っ子政策をすれば高齢者が増え、労働人口が減っていくというのは誰でも容易に想像がつく。そのため、中国は以前より緩和策など打ち出し、少子高齢化対策を行ってきたようだ。それでも歯止めがかからず今回に至ったわけだが、果たして廃止するだけで問題解決になるのだろうか?記事でもその点が不透明で先が見えないとしている。手遅れか否か、今後はここらへんに世界の注目がいくことになりそうだ。


さて、そろそろまとめるとしよう。まずは何と言っても一人っ子政策の廃止が少子高齢化対策として効果を発揮するかどうかだ。この結果次第で各国のその後の対応も変わってくるといえるだろう。子どもが増えれば、幼児・児童用品や食品、あるいは育児向けの商品などの需要が上がってくると予想される。どうやらすでに株価が上昇しているメーカーもあるようだ。また、その後も旅行者の増加など各方面でのビジネスチャンスが到来する可能性も秘めている。つまり、人口増加による恩恵は、中国だけではなく周辺諸国や世界にも影響すると考えられる。この点からも、各国がその後の人口推移などに注視していくと予想される。

だが私が思うに、新しい二人っ子政策だけでは、おそらく少子高齢化社会に歯止めはかからないのではないかと感じている。その理由としては時代の変化があげられる。生活設計が変わり、結婚しない人や子どもを作らない人が増えている現代では、やはりプラスアルファの政策が必要になってくるのではないかと私は思う。

中国の一人っ子政策廃止5つのポイント
一人っ子政策撤回で児童用食品メーカー「Danone」の株価上昇

不安を解決シリーズ第2弾は、「病院内での携帯電話利用について」にしようと思う。実はあることがキッカケで病院に足を運ぶことになりそうだったので、その際ふと気になり調べるに至った。今回はそんな偶然行き当たった素朴な疑問について書いていこうと思う。

昔から言われている「病院内では携帯電話の電源を切る」というマナーは、もうすでに過去のものとなっていた。実は今の時代では新たに改定されていたのである。

2014年8月19日、電波環境協議会は病院での携帯電話の使用は、場所や使い方によってはOKであるという内容の新しい指針「医療機関における携帯電話等の使用に関する指針」を発表したようだ。これによって、病院内のかなり広いエリアで携帯電話を使用することが可能となった。これには通話を控えたり、電源を切らなくてもOKなども含まれる。

具体的な利用可能エリアは以下のとおりだ。
  • 通話・メール・WEB閲覧
    待合室・ロビー・食堂・廊下・エレベーターホール
  • メール・WEB閲覧
    病室
  • 電源は切らなくてもOKだが使用は控える
    診察室
また、携帯電話の利用禁止エリアも指定されている。
  • 利用禁止
    手術室・集中治療室・検査室
一昔前は前面使用禁止な上、電源もOFFが基本だったことを考えると、かなり使用できる範囲が広がっているといえる。ただし、録音や撮影などはやはりマナー違反のようだ。


病院内での携帯電話利用は、時代が進み技術の進歩により当時は当たり前だったことも、今ではだいぶ仕様が変わっているという典型的な一例だと思う。大事なのはそういった時代の流れにより変化したルールやマナーなどを、広く一般的に伝えることだと私は思う。そうしなければ、人によって当たり前と思っているルールやマナーに差が生じ、トラブルの要因にもなりかねないからだ。

病院で携帯電話を利用する際の常識。今は病院でも電源を切る必要はない!?
医療機関における携帯電話等の使用に関する指針

先日、気になる記事を見つけた。それは早生まれの若者は自殺率が高いという内容の記事だ。最初に目にしたとき、「早生まれは何かと損だ」という話を耳にしたことがあったのを思い出し、記事を読んでみることにした。

大阪大学大学院国際公共政策研究科の松林哲也准教授と米国・シラキュース大学の上田路子リサーチアシスタントプロフェッサーが、4月2日とその直後に生まれた学年内で相対的に年齢が高い若者の自殺率と、4月2日直前に生まれたいわゆる早生まれの若者の自殺率を比較したところ、約30%早生まれのほうが自殺率が高いことが明らかになった。これは、早生まれの影響が学齢期を越えて長期にわたって続くものだといえる。この研究から見えてくるものは、やはり早生まれへの対策の必要性だろう。

本件の研究成果のポイントは3つある。
  • 4月2日前後に生まれた若者の自殺率を比較したところ、早生まれのほうが約30%高い
  • 早生まれの影響が学齢期を越えて長期にわたって続く
  • 現行の就学年齢規定の見直しや、早生まれへの対策の必要性
記事によると、やはり早生まれの子どもは同学年のほかの子どもと比較して、身体的・精神的発達が相対的に遅く、学業やスポーツの分野でも不利な立場に置かれることが、たびたび報告されていたようだ。それもそのはずである、なにせ早生まれと4月生まれとでは約10ヶ月以上、場合によっては1年近く年齢に差があるのだから、差が出て当然だ。だがその差が自殺率にまで影響しているというのは、やはり私も少し驚かされた。しかもそれが長期にわたって続く影響とは、予想もしていなかった。


学年を1年単位で分けている以上、早生まれとそうでない人に分かれてしまうのは致し方ないところだと思う。問題はそれによって生じる差をどうやって軽減するかが重要になってきそうだ。学齢期はもちろん、社会に出た後でも対策が必要になるかもしれない。そう考えるとこの問題は、教育政策をかなり深いところから見直す必要性があるといえる。

「早生まれは自殺リスクが30%高くなる」…大阪大が調査
早生まれが青年期の自殺リスクを増加させることを初めて明らかに

生きていくうえで必要はないかもしれないが、あれば効率よく生きていけるというような事柄を「人生を攻略」と題してシリーズ化していこうと思う。大分類の人生攻略をかぶってしまう部分があるが、人生攻略という大きなテーマの中のオーソドックスなカテゴリーだと思っていただければ幸いだ。

初回のテーマは「こだわりを持つ」だ。こだわりとは本来「執着」のことをさすようだが、ここではもっとライトな個人の気持ちに関するものを取り上げようと思う。


生きていくうえで必要の無いもの、そのひとつに「こだわり」というのがある。必要が無いというのは、こだわらなくても不利になったり損をしたりするということが、基本的には無いということだ。こだわっている人にその理由を聞いてみると、ジンクスや安心感、はたまた理由無しなど様々だが、初めから、あるいは気づけばこだわっているという人たちの多くは、意図してこだわりだしたのではないという意見が多い。

今回はそういった人たちを深く掘り下げるというよりかは、これからこだわりを持つという人向けに自分なりの考えを記そうと思う。


私の考えはこうだ。こだわるということは分岐された道を迷うことなく進むためのキッカケなのではないだろうか。例えば一人旅にこだわっている人は、旅行したいと思ったとき「誰と行くか」という分岐点で、迷うことなく「一人」を選ぶだろう。あるいはダシにこだわっている店主がスープを味見して僅かに違和感を感じたとき、迷うことなく作り直すという選択を取るだろう。このように、分岐点に差し掛かったときに、自分のこだわりに沿って道を選択し進むことができる。言い換えるなら、「人生のコンパス」のようなものなのかもしれない。

そう考えると、こだわりを持つことでブレない人生を送れるのではないかと感じる。もちろんそれによって選択した道が必ず正しいとは限らないが、仮に間違っていたとしてもこだわりを持って選んだのだから、その後の後悔は小さくて済むのではないだろうか。

人生の歩き方は人それぞれだ。道に迷うたびに周りの人に聞き、進む道を他人にゆだねる人。人生の手本となる地図を片手に、効率よく道を進もうとする人。はたまたコンパスだけを手に我が道を突き進み、時には自ら道を切り開き進む人。小さなこだわりを持つということは、少しだけ人生に変化を与えることなのかもしれない。

私は最近、死ぬまでにやっておきたいことを消化することができた。これでもし万が一のことがあっても、「悔いが残る・心残りがある」ということにはならないだろう。そこで今回は、「」について考えてみようと思う。テーマは「安楽死と尊厳死」だ。

まず二つの違いから見てみようと思う。

<安楽死>
苦しい生ないし意味のない生から患者を解放するという目的のもとに、意図的に達成された死、ないし その目的を達成するために意図的に行われる「死なせる」行為。

引用


<尊厳死>
人間としての尊厳を保って死に至ること、つまり、単に「生きた物」としてではなく、「人間として」遇されて、「人間として」死に到ること、ないしそのようにして達成された死を指す。

引用

非常に分かりにくい内容だが、要するに共通点として「不治で末期の患者が本人の意思で」というのがあり、相違点として「命を積極的に絶つのか否か」というのがあるようだ。尊厳死は末期の患者が延命処置を施さずに自然に死を待つことを自らの意思で決めること、安楽死は同じく末期の患者が同じように延命処置を施さないことに加え、医師などの第三者が薬物などを使って死期を積極的に早めるということのようだ。

自然死」か「積極的な死」か、異なっているのはこの部分だけだが、両者は全くの別物であるといえる。私はてっきり自殺願望のある人に手を差し伸べ、安らかに眠りにつけるようにしてあげる行為を安楽死なのかと思っていたが、基本的には不治で末期に至った患者だけのようだ。


回復の見込みがない状況でつらい闘病生活をしいられるよりかは、平穏にその時を迎えるという選択肢は、非常に興味を引かれる。私はつらい思いをしてまで延命をしたいとは思わないので、このような選択肢があるのであれば、ぜひそうしてもらいたいものだ。そのための協会も存在しているらしい。大事なのは、「事前に自分が尊厳死を望んでいるということを宣言しておく」ことのようだ。

これに対し安楽死の方はどうだろうか。日本では安楽死は犯罪で、法律で認められていないようだ。世界規模でみてみると、認められているのは欧米の一部の国・地域だけのようで、まだまだ問題を抱えている事案だといえる。


まとめるとしよう。まず尊厳死の方だが、こちらは人権として盛り込んでもいいのではないかと思えるほど合理性を感じるので、私的に否定する余地はない。安楽死の方も同じだ。生きる権利があるのと同様に、死ぬ権利があってもいいのではないかと感じているので、大いに推進してもらいたいと考えている。

増え続ける人口や伸び続ける平均寿命などで、必ずしも延命優先である必要性は無いのではないだろうか。強制的な延命処置は、本当に本人のためだといえるのだろうか。そう考えると、「積極的な死」も理にかなった自然な行為ではないかと私は思う。

安楽死と尊厳ある死
日本尊厳死協会

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