こらみぃ

ニュースやコラム、白書などを読み解いて感じたことなどを書いていこうと思っています。 また、人生攻略もテーマに掲げています。

少し前に、子供の頃を思い出してしまう記事を目にした。それは近年保育園や小学校などで、「父の日」「母の日」のイベントが減少傾向にあるというものだ。父の日・母の日といえば、子供の頃に保育園や小学校などで、父や母の似顔絵を描いて一斉に貼り出すというのが定番だが、近年では片親世帯などの複雑な家庭事情を考慮してイベントを取りやめるケースが増えているらしい。

この記事が掲載されて、ネット上でもかなり議論が交わされたようだ。その多くが否定的で、「少数派に合わせて配慮する必要があるのか?」とか、「自分たちでそういう道を選んだのだから、それぐらい我慢したらどうか」というコメントを数多く目にした。

そこで父の日・母の日のイベントを取りやめているところが増えているという状況について、私の意見をここに記載しておこうと思う。


私は物心ついたときから父と二人暮らしであったため、いわゆる少数派にあたる片親世帯で育った立場である。幼少期には、保育園や小学校で父の日・母の日のイベントを何度も経験している。そのときの孤独感・疎外感は、おそらく片親世帯ではない一般的な家庭で育った人には、なかなか理解しづらいものがあるだろう。性格や環境などの影響で片親世帯の子供でもかなり個人差はあるとは思うが、わたしは毎年行われる父の日・母の日のイベントが大嫌いだったのを、非常に印象深く覚えている。

保育園のころは、周りの子供たちがまだ幼いため一切気遣われることはなかったし、小学校のときは気遣われたが、子供の気遣いというのは大人のとは違い、ただ話しかけないという程度のもので、余計に疎外感が増していた。

イベントの中で特につらかったのが、似顔絵や感謝の言葉などだ。どうすればいいのか分からず先生に質問しても、当時はまだそういったケースに対するマニュアルのようなものが無かったのか、曖昧なことしか言われなかった。「お世話になっている人を描いたらどうですか?」と。幼い子供にお世話になっている人と言っても、ピンとくるだろうか?


そういう経験から、私は父の日・母の日の取りやめに対しては、賛成的立場である。否定的な意見、たとえば「そういう道を選んだのだから我慢したらどうか」というコメントを見ると、我慢するのは親ではなく当事者である幼い子供なので、その言い方はあまりにも無責任ではないかと感じる。また、「その分、母子家庭なら母の日に心からの感謝をこめたらいいじゃないか」というのも、母の日にそれをするのは分かるが、父の日にそれをすれば、回りから「何で君だけ母親の似顔絵なの?」と言われたりしないだろうか?何度も言うが、我慢をするのは親ではなく子供の方だし、配慮する側には先生たちだけではなく、周りの園児や児童たちもいるので、それでは何の解決にもなっていないのではないかと私は感じる。

「少数派に合わせてあれもこれも取りやめ、いずれはバレンタインもクリスマスも取りやめですかね」というコメントも目にした。勘違いにもほどがあると私は思う。なぜなら、本来ならこういった家庭的なイベントは各家庭内で行えばいいだけのことで、なにも公共の施設で行う必要性は無い。加えるなら、バレンタインを保育園や小学校で行うだろうか?「みなさん、好きな人にチョコを渡しましょうね」などと先生から言われる方が、よっぽど配慮に欠けているとわたしは感じるのだが、違うのだろうか?

ただひとつ言えることは、賛否両論の意見が出ているということは、どちらか一方にすることが「正しいという事」にはならないということだ。イベントを行っても行わなくても不満に感じる人たちはいるだろう。大事なのは状況に合わせてより良いほうを選び、不満が出ないようにケアを行うということだと、私は思う。父の日・母の日ではなく、「感謝の日」にしてみるなど、イベントそのものを時代に合わせて変化させてもいいのかもしれない。

保育園で「父の日」「母の日」行事の中止相次ぐ ひとり親の子どもに「つらい思い」させないため
父の日イベント中止? 理由に賛否

気になる記事を見つけた。それは、北米で「孔子学院」と呼ばれる中国政府直属の「中国語・中国文化」を教える教育機関が、相次いで閉鎖しているというものだ。世界各国に親中派を育成する「ソフト・パワー戦略」が崩れかけているらしい。

ソフト・パワーとは…
国家が軍事力や経済力などの対外的な強制力によらず、その国の有する文化や政治的価値観、政策の魅力などに対する支持や理解、共感を得ることにより、国際社会からの信頼や、発言力を獲得し得る力のことである。 -wiki参照-
記事を読んで、私は初めて「ソフト・パワー」という言葉を知った。こういう戦略もあるのだと思わされた。どうやら中国政府は、このソフト・パワーを少し強引に利用したみたいだ。ソフト・パワー自体は、いろんな国で行われている戦略のようだが、中国国家はそれを悪用した形だといえる。

ソフト・パワーで大事なのは、「時には相手の言い分も聞き入れる」ということらしい。

こんな記事も見つけた。中国政府にとって都合の悪い事案は、議論から外されてるらしい。前の記事でも書かれていたが、デリケートな歴史は授業の項目から省略されているようだ。

これではプロパガンダと言われても仕方がないように感じる。


直接的な軍事力や経済力のようなハード・パワーではなく、その国の文化や価値観などを伝えていくという考え方は、非常に現代的ですばらしいと私は思う。だがこれは、使い方を間違えれば危険な要素も含んでいるといえるだろう。価値観を伝えるのはいいが、都合の悪いことは省くというやり方は、教育の道から外れている。教育とは、常に公平であってほしいものだ。

北米の「孔子学院」相次ぎ閉鎖 中国政府のプロパガンダ教育に、学界から批判
中国のソフトパワーの限界?:孔子学院への反発

自分が不安だったり心配だったりする事案について、「不安を解決」と題してシリーズ化していこうと思う。

今回の題材は「通報時の現在地」についてだ。私は昔、小型の携帯電話が普及して間もない頃、ある小さな事件に遭遇し警察に通報するということがあった。屋外だったので、持っていた携帯電話での通報だ。そのとき感じたのが、今いる場所の詳細が分からないということ。「場所はどこですか?」と言われても詳しい現在地はわからない、そんな経験をしたことがあった。そのとき以来、ずっと感じていたのが携帯電話などで通報した際、現在地がわからないのではないかというものだ。

実はこれに関しては、2007年から改善されていた。「緊急通報位置通知」というシステムがそれだ。総務省のホームページにも、制度化までの経緯や詳細などが掲載されている。

総務省 安全・信頼の向上 緊急通報

この制度によって、固定電話なら契約者の住所や位置情報、電話番号や契約者名などが通知され、携帯電話ならGPSが利用できるものならGPS測位による位置情報と電話番号が通知されるようになった。私が心配しなくても、すでに改善されていたというわけだ。


緊急通報というのは普段遭遇することのない事象なだけに、私の中で1つ不安が解消された。

↑このページのトップヘ